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博物学

博物学は、主に動物・植物・鉱物など自然界に存在するものに関して、その種類や性質を記録・整理していく学問。英語では「ナチュラル・ヒストリー」と呼ばれ、そのまま「自然史」と訳されることもあります。地球の仕組みや自然の不思議さを解明しようとするものですが、今回はそうした学問の奥深さを知るとともに、もう少し解釈の枠を広げ、私たちの暮らしの中に大切に受け継がれてきたものを考えてみることにしましょう。まずは、「知の巨人」と言われる博物学者、南方熊楠の紹介です!

博物学者 南方熊楠に学ぶ ものを観る眼
幼少の頃から芽生えていた学術研究に対する想い!

 有名な、若き日の熊楠(24歳)の写真。1981(明治24)年7月、渡航先であるアメリカ・フロリダ州のジャクソンビル市にて撮られたもの

 博物学の巨星と言われる南方熊楠は、植物学者・菌類学者としてだけでなく、民俗学の創始者としても知られています。19歳の時から14年間にわたり、単身でアメリカやイギリスなど海外を遊学しました。10数ヶ国の言語を使いこなし、世界的権威の科学誌『NATURE』を始め、国内外に多くの研究論文を残しています。生涯を通して研究機関に属することなく、在野の学者に徹しました。その功績は、天文学・鉱物学・宗教学など幅広い分野にも及んでいます。

 和歌山県西牟婁郡白浜町、抜群の海景が広がる番所山に「南方熊楠記念館」はあります。700点以上に及ぶ数多くの文献や標本類、遺品等によって偉大な業績と遺徳をしのび、学術振興と文化の進展を目的として、1965(昭和40) 年に設立されました。今回、長年にわたってPRに携わってこられた前館長の谷脇幹雄さんに、熊楠の生き方について話をうかがいました。

撮影/岩井進 取材・文/橘雅康
取材協力/公益財団法人南方熊楠記念館

南方熊楠の功績を伝える語り部として

 実は、私は南方熊楠が通っていた小学校の後輩にあたります。

 小学5年生の時でしたが、担任の先生が出張で、教頭先生が代講で来られました。その時に、「君たちの先輩にはすこい人が2人いる」と言うわけです。一人は『経営の神様』と呼ばれた松下幸之助、そしてもう一人が南方熊楠だと。

 「熊楠の著した書物の中でも特に有名な本が『十二支考』で、それは古今束西の藩蓄を書いた本だよ」と教えてくださったのを今でもはっきりと覚えています。実際に読んでみると、これがまた難しいんです。それでも、なんてすごい人だろうと感銘を受けて、以来、すっと熊楠の追っかけをしているわけです(笑)。小学校の卒業文集では、将来の夢として『民俗学者になりたい』と書きました。残念ながら民俗学者にはなれませんでしたが、和歌山県庁の職員として長年にわたって観光や企画を担当していた私が、定年退職後に大好きな熊楠を讃える記念館の館長を務めることになるわけですから、何とも不思議なご縁ですよね。学者ではないからこそ、私は熊楠の残した功績をPRし、後世に伝える『語り部』でありたいと思ってやってきました。

南方熊楠を語る上での三つのキーワード

 これまで和歌山大学や放送大学などで教えてきましたが、南方熊楠を語る上で大切なキーワードがあります。

 ―つ目は何と言っても「国際性」でしょう。彼はアメリカ、キューバ、イギリスと15年近く留学しています。明治の偉人と言われる人たちの多くがヨーロッパに留学しましたが、せいぜい1~2年の話です。作家・森躙外は当時、軍医総監としてドイツに渡っていますが、それでも4年間ですから、熊楠の滞在期間がいかに長期だったかがわかるでしょう。現地の大学で学位を取得するわけでもなく、自分の興味のある研究に没頭しました。有名なのが、粘菌をはじめとする生物学です。そしてもう一つが民俗学。『遠野物語』を書いた柳田国男は「民俗学の父」と言われていますが、彼が最もライバル視したのが熊楠でした。

好奇心から生まれる「探究」へのさらなるアクション

 幼い熊楠少年は、読書三昧の時を過こしたようだ。10歳の頃から『和漢三才図絵』(※江戸中期に編纂された日本初の百科事典)の筆写を始め、全105冊を15歳の時に完成させた。緻密に構成された筆致もすこいが、何よりもその好奇心と探究心、継続する力には驚かされるばかり。その他にも、少年時代には植物や水鳥など多くの生物の絵を『本草綱目」等の漠籍などからも模写している。
 単身でアメリカに渡航する際にあつらえられたトランクで、
見るからに堅牢そうなのがわかる
 海外で採集し、自筆でまとめられた植物標本。図譜はすべて英語で詳細に書かれている