PROFILE
馬場俊英(ばば・としひで) 1967年埼玉県生まれ。シンガーソングライター。ストーリー性の高い歌詞とそこに登場する人物像を生き生きと描写しメッセージを投げかける楽曲は幅広い世代に支持を得ている。
2007年にはNHK紅白歌合戦に出場し「スタートライン~新しい風」を歌唱。毎年数多くのツアーを行いながら多くの人の心に響く名曲を生み出し続けている。現在、FM COCOLOでDJを務める。
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スペシャル・インタビュー:馬場俊英さん
幼い頃に抱いた夢を実現するには、様々な努力が必要です。そこで、中学受験を志すみなさんにぜひ読んでいただきたいのが、シンガーソングライター・馬場俊英さんからのメッセージです。度重なる挫折をどのように乗り越えて現在に至るのか、物事をポジティブにとらえるヒントをぜひご覧ください!
白球、そしてアコースティックギター、夢を追う少年
小学校の卒業文集に、将来の夢を「プロ野球選手」って書いたのをよく憶えています。読売ジャイアンツの4番を打ちサードを守っていた、長嶋茂雄さんの大ファンでした。
中学でも野球少年でしたから、甲子園に出場していずれプロ野球選手になるという夢は変わりません。でも、高校生くらいになると自分を客観的にとらえ、現実を見るようになりますよね。中学から高校に入る段階でセレクトされないと、名門と言われる野球の強豪校には入れません。
幼い頃からチームスポーツとしてみんなで楽しめる野球に夢中でしたが、家に帰ると一人になります。そこで、小学5年生の時からギターを弾き、曲を作り始めました。並行して楽しめる趣味を持っていたのは良かったですね。その頃はまさかそっちが職業になるとは思ってもいませんでした。
もともとギターがある家というのもめずらしいと思います。なぜギターだったのでしょうか。
二つ年上の兄が音楽好きで、バンドを組んだりしていたこともあって、随分影響されたんです。
当時テレビでは「ザ・ベストテン」などの音楽番組が多くて、西城秀樹さんや郷ひろみさんなど歌謡曲が全盛の時代です。「キャンディーズ」ではランちゃん・スーちゃん・ミキちゃんとファンは分かれますが、断然ぼくはミキちゃん派でした(笑)。
谷村新司さんと堀内孝雄さんがツインボーカルを務める「アリス」や、エキゾチックな世界を感じさせる「ゴダイコ」、パワフルな「サザンオールスターズ」といったすごいバンドをテレビで観る度に、自分もやりたいと思うようになりました。巷にはアイドルファンが多く、歌謡曲があふれていた時代、しかも1980年代は洋楽を紹介する番組も多かったですから、日本のものも欧米のものも分け隔てなくポップスを聴いていました。
高校生になった時、兄貴がやっていたバンドに入れてもらったんです。ぼくはオリジナルの曲を作っていたので、それを演奏するというスタイルですね。そのうちに自分のバンドを持つようになり、無謀にも「上京するぞ」と一念発起するわけです(笑)
実際に東京での音楽シーンに触れて圧倒されました。うまいバンドはたくさんあるわけで、初めて自分たちの未熟さを痛感したんです。そこからもっとうまくなりたい、いい曲を書きたいと試行錯誤が始まりました。
アルバイトをしながら、ライブハウスなどで歌い伝えるという日々でしたが、いま思うと愚直に音楽と向き合っていました。
25歳になった時に、この先、自分の将来はどうなっていくのだろうとふと思ったんです。同級生たちは企業に就職して、すでに社会人として歩み始めていましたからね(笑)。バンドを解散するタイミングだったので、一人でデモテープを作り、レコード会社に送るなど直接的なアプローチを、ようやくここで始めました。
今年、音楽生活26年目を迎えましたが、デビューから現在に至るまでの道のりはどういうものでしたか。
実は、ぼくは二度デビューをしているんです。
一度目はデモテープを作って、わりとスムーズに何社かからオファーをいただき、大手のレコード会社からデビューすることができました。28歳の時です。4年間在籍しましたが、CDはまったく売れず、レコード会社との契約と所属事務所との契約を打ち切られてしまいました。
その頃はインディーズレーベルの立ち上げがあちらこちらで起こった時代で、カフェや洋服のブランドなどがCDを出して販売するなど多様化してきました。
コンピューターの急速な普及は音楽シーンにも大きな影鬱を与えていて、それまでスタジオで行っていた楽曲作りが機材をそろえれば自宅でもできるようになりました。そうして小さな個人レーベルのレコード会社「アップオンザルーフ」を立ち上げました。
その後6年間は、そうした形で音楽活動を続けます。CDのジャケットをデザインしたり撮影したりするのもすべて自分で手配し、レコード店に自作を並べるにしても、注文書を持って各地域のお店を順に訪問していくわけです。今でもよく覚えていますが、最初はたった104枚しか注文してもらえませんでした。大手のレコード会社だと、売れない歌手でも1万~2万枚は出す頃ですよ。個人ではどうしてもプロモーションに限界があることを痛感し、またメジャーで作品を発表するようになるのですが、あの時の104枚には実感というか手応えがありました。
音楽を作るというのは難しいですが、届けるのはもっと難しい。それだけに、リスナーからダイレクトに届いた感想などは本当に嬉しかったし、励みになりました。リスナーやファンとのつながりを大切にしたいという思いは、その頃から今も変わらないですね。
いろんな地域をコンサートで回りますが、関西の方々というのは、文字通り音楽の楽しむ術(すべ)をよく知っていらっしゃるという気がします。アーティストとの距離の取り方がうまいというか。
ある時、大阪でライブをしたら、ファンの方からおにぎりと煮物をいただきました。別の方は「パンを焼いたから」と届けてくれたり、とてもフレンドリーです(笑)
シンガーソングライターとしての矜持(きょうじ)
では、まず作詞と作曲というソングライターとしての一面から話を聞かせてください。馬場さんの書かれる歌詞には、よく「風」という言葉が出てきます。何か特別な思い入れはありますか。
そうですよね、それはある時に自分で気づきました。でも、気にしないことにしました(笑)
無意識に「風」という言葉を使っていたんですけど、冷静に分析してみると、ぼく自身は物が移り変わっていく風景が好きなんだということに気づいたんです。たとえば朝から昼にかけて、春から夏へ、あるいは少年から青年へというような。そういうイメージの中にはいつも風が吹いているんです。
歌詞には向かい風もあれば追い風もあります。立ちはだかる壁にもなれば、後押ししてくれるものにもなる。いずれの場合でも馬場さんのとらえ方はいつもポジティブですね。
ぼくは男三兄弟の真ん中なんですが、母親からは「俊英だけが言うことを聞かない。頑固で言い始めたら最後まで絶対曲げない子どもだった」と言われたことがあります。負けず嫌いというか、あきらめない性格なんですよね。
生きていると、何か自分にとって嫌なことや、困難だと思うことにも取り組まなければならない時がありますよね。「どうせだめだから」「自信ないな」など、行動する前に思わず声に出してしまうことはあります。でもぼくはこれだけでネガティブだとは思いません。問題はこの後です。あきらめのラインというか、予防線を張った後に、「じゃあ、あとは思いきってやってみよう」とチャレンジできるかどうかが大切だと思います。
目標や願い事を口に出すというのも大事なことかもしれません。ぼくは三十代になって「東京と大阪の野音(野外音楽堂)でコンサートをやる!」と心に決めました。ライブを行う会場がまだ200人規模という頃です。でも、38歳の時に2千人近い野音でのコンサートが実現しました。そこから「夢は叶(かな)う」ということを、実体験を持ってリアルに歌として届けることができるようになったと思うんです。
願いを公言するということは、ご自身の決意表明でもあるわけですね。
覚悟を決めたというか、気持ちの上で退路を断つことで、周りの音楽関係者にも本気度が伝わったのかもしれません。一緒にやろうとサポートしてくれる方々が集ってくれました。
「風」以外にも、歌詞にある「明日」や「道」という言葉がとても印象的です。応援ソングと言われるゆえんでしょうか。シンガーとして、特に伝えたい想いはありますか。
小学生の頃から曲作りを始めましたが、それはプラモデルを作るような自分だけのものづくりだったと思います。
先程も言いましたが、インディーズでやり始めた頃からは、作った歌のリアクションが返ってくるようになり、オーディエンスやファンの方々の存在というのはとても大きくなってきました。いまはホームページやインスタグラム、フェイスブックといったSNSを通じてこちらから発信するとともに、いろんなメッセージをもらいます。毎日必ず目を通しているのですが、ファンの方々のメッセージの中には、こ自身の生活体験が書かれています。
長年のファンからは「いつも夫婦でコンサートに行っていましたが、今年は主人が病気で行けなくなって・・・」というようなものもあります。一緒に齢を重ねてきた方々の人生の一端を見せてもらっているうちに、心が動き出しました。
それは、幼い頃にぼくが「アリス」や「ローリングストーンズ」にエネルギーをもらったように、ファンのみなさんに何らかの励みとなるようなものを、少しでも提供したいという思いです。挫折している人がいれば、次のコンサートまでにエールをおくるような歌を作って届けてあげたいと思うようになったんですね。
ファンからすれば、馬場さんの代表曲も聞きたいし、いまの心情を吐露するような最新の曲も聞きたいはずですね。
もちろん、コンサートのセットリストを考える上では、なじみのある曲を聴いてもらいたいという思いもあるし、ちょっと視点をずらすような新しい曲も加えていかないと、リスナーとの関係性は長く続いていかないとも思っています。だからフルバンドでコンサートをしたり、アコースティックギター一本だけをかついで一人で弾き語りをするライブをしたりしています。コンセプトの違う形がいろいろあってよいのではないでしょうか。
CDやネット配信のほか、コロナ禍においては無観客のオンラインでのライブ配信も行われています。観客と直に対峙する双方向のライブやコンサートには、どのような醍醐味がありますか。最後にぜひ聞かせてください。
なぜだかわかりませんが、50歳を越えていろんなアーティストと一緒にステージを作り上げることが増えてきました。「スターダスト☆レビュー」の根本要さんや「愛は勝つ」という名曲を生み出したKANさん、杉山清貴さん、佐藤竹善さんといったそうそうたるボーカリストたちを始め、ぼくよりも若い実力派アーティストと同じステージに立つこともあります。年齢を重ねるにしたがって気後れすることもなくなり、楽しめるようになりましたね。
ライブって本当に不思議なもので、同じバンドメンバーで同じ楽曲を演奏しても、1回たりとも同じようにはなりません。ある会場で盛り上がった曲の演奏や合間のMC(ライブ中のトーク)が、次の会場ではそれほど受けないということもあります。お客さんの大きな声援でホール全体が和やかにもなるし、プレーヤーとオーディエンスみんなで場を作っていくという空気感を楽しみたいと思っています。
みんなで音楽を作り上げる場合に大切なのは、人の音を聞くということです。周りの演奏を感じながら、それを生かすように自分がでしゃばりすぎないように演奏する。これは学校生活をはじめ、社会生活のいろんな場で使える心がけだと思いますよ。