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なぜ、医歯薬系に進学するのか。
スペシャル・インタビュー 須磨久善さん
心臓外科医/須磨ハートクリニック院長
動いている心臓をメスで切り取るというバチスタ手術を日本で初めて成功させ、胃動脈を使った心臓バイパス手術の高い成功率で世界的に知られる名医がいる。心臓外科医・須磨久善、65歳。 先生の生きざまは、これまで多くのメディアに取り上げられ、ドラマ化もされている。また、テレビドラマ「医龍」や映画「チーム・バチスタの栄光」など、数多くの医事監修も行われてきた。「心臓手術は挑戦の連続で、人生そのものに似ている」と語る先生の、いまの率直な思いを聞いた。
撮影/井原淳一
取材・文/橘 雅康
心臓外科医としての歩み、そしてこれから――
甲南中・高から大阪医科大学を経て、世界で活躍する心臓外科医となった須磨久善先生。
これまでさまざまなチャレンジを重ねて来られた先生だからこそ、うかがってみたいことがあった。
中学受験を経て入学した甲南中学校・高等学校での学校生活。なぜ、医者を目指したのか
親兄弟に医者はまったくいなかったので、親戚縁者から医者になれと言われることもなければ、周りを見て医者がこういうものだと知る機会もありませんでした。だからこそ、甲南という、当時は大学受験をめざすのと対極にある学校に入ったんですよね。
小学校の先生からうちの母親に「灘に行けるよ」と言ってもらっていたようで、もしも親が医者であったなら、中学受験の段階から灘や甲陽学院などの進学校を選んでいたかもしれません。ただ、僕自身、坊主頭というのはどうしても無理でした(笑)。その当時、阪神間では公立中学も私立中学もほとんどが丸刈りで、髪の毛を伸ばしてよいのは関西学院と甲南の二校だけだったんです。受験の前にはもちろん、両校に見学に行きました。すると、関学は制服が黒の詰め襟、甲南は濃紺で、こっちの方がいいと(笑)。だから、甲南大学に行きたいから甲南中に入ったわけではなかったし、入学後も将来何になるといったビジョンもまったくなかったんです。
バンカラな雰囲気もまだ残っていて、やんちゃな者もいれば、本当のお坊ちゃんもいましたね。一学年は4クラス・160名程で、中高が同じ校舎なので、大人のような高校3年生から、かわいらしい中学1年生の男の子までが混在して生活するわけです。それはなかなか面白いものでした。中1から高3まで、毎年100人から200人ほどの希望者をスキーに連れて行ってくれるような学校でしたから、毎シーズン、アルペンスキーに夢中でしたね。在校中は、生徒たちはほとんどが併設の甲南大学に行くものだと思っていましたから、大学受験の話なんてほとんど出なかったわけですが、それでも将来のことを少しずつ意識し始めました。
1964年、東京オリンピックが開催された年ですが、当時の日本は経済がとても上向きで、民間企業に活力がありました。会社で望まれる人間像というのは、いわゆる猛烈社員ですね。出世志向が強く、人を押しのけても上に成り上がりたいというタイプですよ。僕自身はそういうのが嫌いで、自分はそういうことができないと思っていました。僕は一人っ子でしたから、幼い頃から本を読んだり、植物を育てたり動物を飼うのが好きな少年でした。兄弟喧嘩をすることもなければ、悪さをすることもなかったので、腕白なやつらからすると、僕は極めて狙いやすい対象だったんだと思います。どちらかというといじめられっ子でした。ですから、僕にとって猛烈社員になるというのはあまりにかけ離れたイメージで、だからこそ社会的に認められる仕事をしたいという思いがありました。しかも、その仕事というのが人をやっつけなくてもよくて、人が喜んでくれてもらえたら嬉しいなと。それで、あれこれ考える中で見出したのが医者と弁護士という職業だったんですね。
今でこそ医者を主人公にしたテレビドラマや映画があふれていますけど、昔は日本で医療を扱うドラマはほとんどありませんでした。
当時、アメリカの人気ドラマに『ベン・ケーシー』という青年外科医が活躍するのと、『ペリー・メイスン』という敏腕弁護士が活躍する法廷ものがありました。喜んで見ていたあの頃は、どちらのドラマも、困ったことがあって頼んできた相手を助けてみんなハッピー、そんなものすごくわかりやすい仕事だとイメージしていました。子どもの頃は学閥がどうとか、年功序列がどうかなんてまったくわかりませんからね。で、医者か弁護士になると14歳くらいの時に思ってしまったわけなんです。親は頭を抱えましたよ。「なんでおまえは灘や甲陽に行っとかなかったの」と。僕は死んでも坊主頭だけは嫌だったので、今でも後悔する気持ちはこれっぽっちもないですよ(笑)。人を困らせるようなわがままではなくて、好き嫌いがはっきりした子どもだったとは思いますね。
さあ、そこで医者か弁護士かということなんですが、テレビドラマを見ていて、ある時ふと気づいたのが、弁護士をすると必ず相手をやっつけなくてはならないということでした。一人裁判なんてありえないわけだから、そこには勝ち負けがあると。正しい、正しくないというのは別にして、こちらが勝てば相手は辛い思いをします。こういうのはやっぱりダメだなと思うと、医者という選択しか残っていませんでした。テレビドラマの影響というのは大きいと思いますよね。
僕はテレビドラマや映画などの医事監修もしていますが、ドラマ『医龍』で俳優の坂口憲二くんが演じる朝田龍太郎医師に憧れて、医学部に入ったという学生も知っています。手塚治虫のブラックジャックや、先の朝田龍太郎など、とにかく格好いいですよね。ただ、坂口くんにしても映画『チーム・バチスタの栄光』の吉川晃司くんにしても、撮影に入る前には腱鞘炎になるくらい、縫合などの練習をしてもらいました。彼らが本気で取り組んだからこそ、視聴者に伝わるものがあったんだと思います。外科医らしさとは何かをつかんで表現してほしかったんですね。立ち姿だけで外科医だとわかるように。
高校生になって、ある科目で90点を取った時、担当の先生に100点取れば医学部にいけますかと聞いたんです。するとすかさず『無理や』と言われました(笑)。甲南には人間的に素晴らしい先生が大勢いましたが、当時は医学系に進むために必要なことを教えてくれるような、受験指導をしてくれる先生はいませんでした。
高3になるとこっちも必死なので、学校にも行かず家で勉強していました。担任の先生もそれを許してくれるような大らかさがありました。
なぜあの時、頑張れたのか。僕の場合はモチベーションというよりは、選択肢がそれしかないと100%思い込んでいたということもあるでしょうね。無理ならランクを落として別の学部、そんな発想もまったくありませんでした。それと、塾には通ってなかったけれども、絶対に浪人だけは嫌だという思いが強かったのも原動力になったんだと思います。浪人生が街中でたむろしている姿、あれも生理的に無理なんです(笑)。
何でも自分で決めて行動するというスタイルを貫けたのは、甲南に進学したからこそだと思っています。もし違う学校に進学して医学部に入ったとしても、まったく別の医者になっていたのではないでしょうか。
四、五年前に「オール甲南」の同窓会で講演を頼まれて、高校の講堂で話をしました。その時に在校中にお世話になった先生がまだ御存命で、来てくれたんですよ。ポロポロと涙を流して喜んでくれました。