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科学の未来を担うみなさんへ
私立中高一貫校では生徒の成長に合わせ、様々なキャリア教育を実施しています。
ひとつの学びから疑問が生まれ学問研究へと結びつき、また次世代といかに繋がるのか。
そこには「きっかけ」が大きく影響します。今回の「私学プレミアム」は、その取り組みとして、三田学園中学校・高等学校で行われた「特別文化講演」をご紹介します。
会場は樹齢100年を超える木々が生い茂る16万㎡のキャンパスに建つ小寺ホール。登壇するのは2001年にノーベル化学賞を受賞された野依良治先生です。
先生は科学者としてのご自身の歩みを織り交ぜながら、これからの社会を切り拓くうえで人類、科学に求められることを60分にわたり語られました。会場に集うおよそ550人の高校1、2年生はどのような「きっかけ」を感じたことでしょう。 野依先生のお話、そして講演後行われた座談会の様子をお届けします。
講演会
「科学技術は国力の源泉です。ぜひとも独創的な研究をしてください。そのためには一定の科学の力を持たなければなりません。三田学園のみなさんには自信と、そして責任を持って将来を歩んでほしい」。
野依先生はTIMSS(国際数学・理科教育調査)などの調査結果を示し、日本の高校生が他国と匹敵して優秀であるとエールを贈ったうえで、大学に合格すると少し安心するのでは? と気持ちの引き締めを促した。
「科学者としての成功はいい問題を自分で発見し、正しく解答すること。独創とは漢字のとおり『独り』『創造的』であることです。孤独に耐える精神力。大勢の人が反対してもそれでもやるという、強い“思い入れ”を持ってほしい。“思い込み”とは違います」。
さらに先生は、強い地頭を持って、“自学自習”ができる人間になってほしいとも。「感性と好奇心を旺盛に。独立独歩。芸術で言えば前衛です」と表し高校生に思いを込める。
「独創には環境が大切。若い時代に異なる文化に触れ、ひらめく機会を持たなければならない。これからは独りが創る『独創』だけでなく、共に創る『共創』が大事になります。また、競争ではなく、共創の時代ともいえますね」。2015年の統計によれば、アメリカの大学における博士号の取得人数が年間、中国人が約5000人、インド人も2000人を超えるという。ところが 日本人は120人足らず。博士号を取得するためには最低5,6年必要。その間にできる多くの友人たちが将来、国を超えて共同研究、共同活動をするパートナーとなる。先生は世界的人脈の厚みが圧倒的に違うと語り、『独創』、『共創』の両面から、「異」に出会うことが大事になると訴えかけた。
「一人の科学者による独創的な発見 => これをもとに10人、100人の協力の下で優れた技術的な発明が生まれる => さらに1000人の知恵を集めて社会的価値を作るイノベーションが誕生する」。
イノベーションのためには独創的な発想は必要。しかし、一人でできることには限界があることを考えてほしいと先生は語る。現代の多くの社会的問題は同質の人が集まっても解決できない。そのためには「グループ(=群れ)」ではなく「チーム(=組)」が欠かせない。「組」は明確な行動目的を持ち、意図して作られる社会的組織だ。先生はこうも語った。「知の共創の時代にはもはやオールジャパンという考えは通用しません。科学に国境はない。いずれの科学技術大国も世界中から多様な最高の技量を持った人材を集めています」。誰が解決するのではなく、どうすれば解決できるか。「そのためのネットワーク形成は絶対的に必要です」と呼びかけた。
科学技術は常に進み続け人類の英知が高度の物質文明を生み出したことは、われわれの誇りと野依先生。一方で、70億人を超える人口、気候・環境の変化。資源枯渇、経済格差など、今日、様々な問題は先送りにされている。生徒へは「その行方が成り行き任せでいいのかというと、そうではないですね」と問いかける。
加えて、時間、距離の制約を取り除いてリアルワールドと一体になった超サイバー社会が出来上がりつつある。先生は「限られた分野においては、AIが人間を超えることが起こるでしょう。しかし人間は総合的なものであり、人知の本質を超えることはない」と論じる。そのうえで、「将来の科学技術の進歩は、単に経済成長のためよりも、社会的発展、そして人類文明の存続のためにあるべきだ」と現代世代の責任回避を案じた。
「人類20万年の歴史。いつの時代でも峻厳な自然と対峙しながら、それに適応しながら生きてきました。そして、今日の人類社会があります。しかし、未来の人類の命運を握っているのは自然ではなく、人間自身の価値観にあります」。
あらためて、野依先生は、21世紀は限られた地球の枠組みの中、人類の生存のために「競争」から「協調」の時代に大きくシフトしていると語ったうえで、最後、三田学園の生徒に、こんな言葉を贈った。
「志し高いみなさんには、ぜひとも独創性のある科学を切り拓いてほしい。同時に、“なぜ科学技術か”をよく見定め、世界の若者と手を携えて、みなさんの後継世代へいい社会を手渡してほしい。幸運を祈っています」。
座談会
「私たちはいま知識を学ぶ勉強をしています。今日をきっかけに、これからはより視野を拡げ、専門的なことを学びつつ独創的なアイデアを持てる人間になれることを目指します」。生徒会長・堀内 妃さん(日能研元町校卒業生)の言葉で講演会は幕を閉じる。彼女も参加する講演後に行われた座談会。そこでは、静かに、激しく「この地球(ほし)の未来を語る」生徒16人と野依先生の真剣な眼差しの交換があった。
「人類は学ぶことができるはず。しかし現代の人々は本当の意味で学んでいるのでしょうか?」と切り出す生徒がいた。野依先生はさっそく「人類は絶滅危惧種であるとも言われていますね。」と応じる。
「ノーベル化学賞受賞者フィッツハーバーのアンモニア合成法の開発以降、肥料としての窒素化合物が世界中の農地生態系に供給され、世界の人口は急速に増加したのではないですか?」。生徒からはこんな科学技術と人口問題に関する問いかけも。参加する生徒たちは鉛筆を走らせながらも手を挙げる隙を待つかのような熱の帯び方となっていく。野依先生と16名のこまかな意見交換は、世界に起こる食糧不足や経済格差への危惧から、その解決としての教育の普及方法へ。ある生徒からは「野依先生、貧富の格差にはAIが有効なのでは? 途上国に学習支援をすべきではないでしょうか。」との意見も聞かれた。人工知能、AIは高校生である彼ら、彼女たちが最も関心があることのひとつだろう。
「現実にクローンの製造は可能と言われるが、規制がかかっている。」はたまた「人工知能は感情を持つでしょう。そのとき共存はできると考えますがいかがでしょう?」。男子、女子問わず、次々に意見、質問が投げかけられる。「現状は科学技術が先行しており法律などの規制が追い付かない状況。人工知能は誰が所有するのか。この境界線もはっきりとはしていないでしょう?」。議題は倫理観まで発展していく。野依先生は生徒一人ひとりの意見に丁寧に返答しながら話の終わりに必ず、眼光鋭くこう投げかけた。「君たちはどう考える? どう思う?」。そして言葉をつないだ。
「高校生の君たちにまだ子どもはいない。けれども、子、孫、曾孫世代と真剣に議論をしなければならない。将来世代と話し合うことにあるのではないですか。いまだ見ない世代が嫌だということはやらない。やってくれということはやる。そういうことではないかな」。
議論はやみそうになかった。座談会はあっという間に過ぎる。野依先生は微笑んだ。
「共感。共生。共助-。たいへん楽しい時間を過ごさせてもらえてありがとう。ぜひとも話の続きを送ってください」。
野依良治(のより りょうじ) 現)国立研究開発法人科学技術振興機構研究開発戦略センター長
私たちの手が右手と左手からなるように、物質にも右形と左形が存在する。幼いころに、ナイロンが水と石炭と空気から作り出されることを知って科学の道に入った野依博士はBINAP(バイナップ)という特別な物質を用いて、右形物質と左形物質を作り分ける技術を開発しました。その作り分け技術は、製薬産業や食品産業でひろく応用されています。
湯川博士にあこがれ
野依先生は1938年9月3日に兵庫県は現在の芦屋市に生まれる。第二次大戦末期は、兵庫県佐用郡に疎開し空襲の難を逃れた。神戸大学附属住吉小に通っていた5年生の時、先生は湯川博士がノーベル賞を受賞するというニュースを耳にする。「国破れて科学あり。小学生であった私にも、湯川博士の受賞によって、戦後のみじめな時代に明るい光が差してきた」。これをきっかけに科学に対して興味を持つようになり「湯川博士のような、立派な科学者になりたい」と、科学への強烈なあこがれを胸に刻むようになる。
ナイロンに魅せられ
小学校を卒業した野依先生は、1951年に灘中・高へ進学。柔道部に所属し肉体と精神を鍛える日々を過ごす。先生は「自分で言うのもなんだが相当の腕利きだった。その当時から三田学園もやはり柔道強豪校として有名だったことを、いまでもよく覚えています」と述懐。このころ、化学企業の研究者だった父親に連れて行かれた東レの新製品発表会に行く。そこで、ナイロンが水と石炭と空気からつくられることを知った先生は「化学はすごい。ほとんどただのものから、まったく想像もつかないものを作り出してしまう」と化学のなかでも工学部を目指すことに決める。
京都大学時代
1957年、野依先生は京都大学工学部へ進学し、有機化学の研究室に所属する。有機化学とは炭素を主体として、水素、酸素などからつくられた化合物を研究する学問。時代は生物が作り出す物資の研究から、ナイロンやポリエチレンといった石油を主原料とする合成化学の研究へと発展していた。当時の大学研究室は実験設備も限られており「あるのは若者の科学に対する好奇心だけ」だったという。しかし、化学の研究は実験が最も大切で、先生は朝から晩まで研究に明け暮れ、修士課程を終えると同時に助手となる。
パスツールへの挑戦
野依先生がノーベル化学賞を受賞したのは2001年。三田学園の高校生がちょうど生まれた年、もしくは生まれてすぐことだ。京都大学における先生のもともとの研究は「左右が区別できる触媒を使って、ある化学反応の仕組みを調べる」というものだった。これは、「左右の非対称。これこそが無生物物質の化学と、生物物質の科学にはっきりと引ける唯一の境界線である」と説いた、約160年前のフランスの科学者パスツールへの挑戦でもあった。
自然界には、左右が非対称で、互いが鏡に映してみえる像の関係にある物質がたくさん存在する。たとえば、私たちの体を作るタンパク質の材料となるアミノ酸は、すべて左形。先生は自分で立てたある仮説が正しいかどうかを、左右が区別できる触媒をつくり、確かめようとしていた。仮説が合っていればできてくる右手形と左手形の物質の量に差が出てくるはず。実験結果は、わずか10%程度ではあるが右手形と左手形に差があった。
「BINAP触媒」
野依先生はその熱心さから29歳という若さで名古屋大学理学部の助教授に就任。アメリカのハーバード大学への留学を経て、4年後の1972年に教授へ昇進する。教授に就任した先生は研究を継続。そして6年にわたる研究を重ね、ついに「BINAP(バイナップ)触媒」という左右を見分けることのできる物質を発明する。「BINAP」を用いた左右の作り分け反応は「不斉合成(ふせいごうせい)反応」と呼ばれる。
現在、工業製品を作り出す際には、様々なところで野依先生の技術が用いられている。ハッカの香りとして有名な?-メントール、抗菌剤クラビット、抗生物質、保湿成分などが、その代表例。医薬は世界で100兆円の市場が不斉合成の重要性を物語る。重大な副作用をもたらす可能性のある鏡像体の混入がなくなれば、安全性が飛躍的に高まるからである。
科学者の使命
学術的にだけでなく、社会的にも貢献した野依先生の業績に対して世界中の科学者が「ノーベル賞は時間の問題である」と考えていた。そして、ノーベル賞が誕生してから100年目の記念すべき2001年、ついにノーベル化学賞が授与される。
「我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処に行くのか」。
後期印象派の画家ポール・ゴーギャンには、このように題する名画がある。科学とは、この問いかけに真正面から、そして客観的に向き合うことをするものだと野依先生はいう。「永く続いてきた科学の営みが、まっとうな自然観、人生観、あるいは死生観を培ってくれたのだと。それぞれの科学者が、それぞれに思う課題をつくり、科学を営んで真理を追究していくことが使命であると」。
1938年 | 兵庫県生まれ |
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1951年 | 灘中入学 |
1961年 | 京都大学工学部卒業 |
1963年 | 同大学院工学研究科工業化学専攻にて修士課程修了。同大学助手。24歳。 |
1968年 | 名古屋大学理学部助教授。29歳。アメリカのハーバード大学へ留学。 |
1972年 | 同大学理学部教授。33歳。 |
1997年 | 同大学理学部長 |
2000年 | 文化勲章受章。 |
2001年 | ノーベル化学賞受賞。 「キラル触媒による不斉合成反応の研究」によるK・バリー・シャープレス教授、ウィリアム・S・ノールズ博士との共同受賞。 |
2003年 | 独立行政法人理化学研究所理事長 |
2015年 | 国立研究開発法人科学技術振興機構研究開発戦略センター長 |
2015年 | 科学技術館館長 |
(取材・構成/日能研関西 進学情報室)