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私学の食生活

スペシャル・インタビュー 松井泉美さん
龜井堂總本店 取締役


撮影/岩井 進
取材・文/橘 雅康

私学にも愛される銘菓「瓦せんべい」

食品偽装や輸入食材の問題など、食の安全性が問われる今だからこそ、老舗・龜井堂總本店を訪ねてみたいと思った。1873(明治6)年の創業以来、ここには140年にわたって守り続けてきたもの、そして新たに生み出してきたものがある。

そうした姿勢は、私学教育の歩みとどこか共通するかのように思える。

厳選された材料で作られる、上質な味わいと豊かな時間

「瓦せんべいは、明治時代の初めに洋菓子材料の影響を受けて考案されました。当時とても高価で他の地域では手に入らなかったと言われる砂糖や卵、小麦粉を原材料として焼き上げたものです。同じ材料をオーブンでふんわり焼くとカステラになります。
外国人居留地のある港町神戸は、当時どんどん西洋の文化を受け入れ始めました。文明開化そのものの香がする瓦せんべいは、すぐに庶民のあいだに広まります。その後、クッキーやビスケットといった洋菓子が出始めますから、神戸の人たちは早くから洋菓子の風味に慣れ親しんできたということになりますね。神戸といえば、スイーツが美味しくて有名ですが、私どもはその原点にあると言われています。『和』の技術でもって、『洋』の材料を焼く。明治の初期、そうした新しい風を吹き込んだのは創業者である松井佐助でした。
瓦せんべいには、舌のこえたお客様方と作り手である私ども、そして原材料を提供してくれるメーカーの存在が欠かせません。主原料である小麦粉を提供してくれる製粉会社も代々変わらず、厳選したものを届けてくれます。こうしたつながりがあるからこそ、変わらぬ味を提供できるのだと信じています。もちろん企業ですからコスト意識もあり、利益も考えるわけですが、品質へのこだわり、安全で安心していただけるものを提供したいという強い思いは譲ることができません。厳選した素材にこだわり続けるのもそのためです。ここは伝統を守るという大切な部分だと思いますね」そう語るのは四代目社長・佐一郎氏の妻で、取締役の松井泉美さん。


明治初期、西国街道に沿った東西約1.2㎞が元町通商店街となった。
大正時代の初めにはアスファルトが敷かれ、戦後はスライド式のアーケードができるなど、日本初の試みが数多く行われている。

老舗といえば、もちろん何代も受け継がれてきたわけだが、たとえば京都の樂家は、千利休のわび・さびの精神を支える洗練された茶碗を生み出した陶工・長次郎を先祖に持つ。代々当主は樂吉左衛門を名乗り、それぞれの当主に先代とは異なる独自性が求められてきた。名物と呼ばれるほどの菓子を扱う亀井堂総本店の場合はどうなのだろう。

「私どもにとって最初の大きな転機となったのは、明治23年に東京で開催された『第三回内国勧業博覧会』でした。ここで、職人を連れて瓦せんべいを出品したところ、大変な評判となったんです。それを機にのれん分けをした店があり、現在では東京の上野や人形町、神戸にも亀井堂と名のつく店がいくつかあります。それだけに、瓦せんべいを広めたという誇りは持たなければと常日頃思っています。
いまは機械でせんべいを焼く店もありますが、やはり熟練した職人による手焼きの伝統を廃れさせてしまうことはできません。菓子の伝統というよりも、むしろ文化そのものを守るという意識と言った方が、感覚としては近いと思います。
ただ、そればかりに固執してはいけません。私どもが一番恐れないといけないのは、伝統にあぐらをかいてしまうということなんです。価値ある守るべき大切なものと、時代に合わせた新しいものという両輪で前に進む必要があると思っています。味のヴァリエーションを広げたり、季節感を取り入れたりするなど、商品の中に工夫するべきことは多々ありますね」(松井泉美さん)

亀井堂総本店は、ドラマの『君の名は』や、数々の宝塚歌劇の原作などで知られる劇作家・菊田一夫(1908~1973)が、自伝的小説『がしんたれ』の冒頭「瓦煎餅の匂い」の中で、店舗風景を描写していることで知られている。菊田自身も美術品商での丁稚経験があり、店の使いの帰りには、よく亀井堂の職人がせんべいを焼く姿を見ていたという。店に戻ると番頭から「おまえ、また見てきたな」と叱られる。とぼけてみたところで、おでこには二本の黒い線がついている。亀井堂の人寄せの鉄格子には、長年せんべいを焼いてきた油や煤が染みついていたというオチだ。「夏目漱石の最晩年の書簡の中にも、贈られた『瓦せんべい』へのお礼が書かれた文章があるそうですよ」と松井さん。まさに文人墨客に愛された銘菓といえる。

日能研5年本科教室ステージIII、国語のテキスト第31回では、増田れい子さんの「どら焼き」という随筆を題材として扱っている。6ページ目には、ふんわりとやわらかい生地の間に、栗と餡を入れた『瓦まんじゅう』を焼く職人の姿がある。写真と随筆の世界、うまくイメージを重ね合わせてみるというのも、また楽しいことだろう。