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スペシャル対談

-- 今日の対談は、まるで大学の教職課程で講義を聴いているかのようですね(笑)。これまでの社会の大きな流れを伺いましたが、戦後と現在では子育ての様相もずいぶん違っていたのでしょうね。


尾崎 八郎 [おざき・はちろう] : 啓明学院 理事長

【尾崎】 よく戦後のベビーブームや団塊の世代の話が出ます。私の生まれは1941(昭和16)年ですが、私たち世代が子どもの頃というのは、子どもの数も多く、ケンカの中で物事を覚えることもあったし、野山を駆けまわり、いろんなことにチャレンジして失敗から学ぶことも多かったんですね。親からすれば、子どもは言うことを聞かず、常に走り回っているものだという認識だったと思います。ところがいまは逆に少子化の時代。親が子どもに言うことを聞かせるため、どうすればよいかということに焦点があたり、子育て論などハウツー本がどんどん出てくるようになりました。教育の現場でもマニュアルが整備されるようになり、それにうまく乗せると大学入学への入口までは導きますと。それが最大の成功のようなことになってしまっているんですね。効率よく整備され探求された教授法など、見える形のカリキュラムは持っていても、はたしてそれだけでよいのかという話です。人というのは見えない心というものと合わせて育っていくものですから、森先生の神戸女学院も私どもの啓明学院も同じキリスト教の学校として、私学としての存在価値が生まれてくるのだと思いますね。人間形成と知的探究、この二つが合わさって教育は行われるべきだと思います。

-- 人間形成ということでは、コミュニケーション能力が教育の大きな鍵だろうと思います。昨今はインターネットの普及や「LINE」「facebook」など、ソーシャルネットワークサービス(SNS)も急速に広がりを見せています。


森 孝一 [もり・こういち] : 神戸女学院 院長

【森】 SNSについては、確かに怖さというものはありますね。メールで返信しないことに対する脅迫観念のようなものを子どもたちは持っていますし、実際にそれによるイジメの問題もクローズアップされています。いまの世の中、情報は無限のようにあふれていますし、自分に入ってくる情報をいかに制限するかというように、うまくコントロールできる力は当然必要になってくるでしょうね。ただ、中学1年生や2年生あたりではなかなか難しいことでもありますから、学校教育の中でリテラシーを真剣に考える場を設けなければならないと思います。情報をどう選択していくか、どういう自分を作っていくのかという生き方にまで踏み込んで考えることは大切だと思います。

-- 毎日のように世界中のニュースが飛び込んできますが、いまの国際情勢はとても不安定です。科学技術の発展とともに、戦争の時代でもあった20世紀。21世紀は世界中がもっと協調する時代になると思っていましたが、紛争はさらに細分化して続いています。

【尾崎】 戦争の危機というのは、弱くなったり消えたりすることはないと思っています。世の中の変化や成長が起こってくると、必ず現状の変更を要求するようになります。子どもが育つと親に対して意見をいうこともあるし、関係性も少しずつ変わりますね。それは家族以外の対人関係でもそうです。変化を作らせないのは封建制社会です。身分や職業などを固定化し、社会に変化を起こさせないようにしました。

どんな時代にあっても、親というのは子どもに対し、自分たちの時よりももっと幸せになってほしい、もっと良い社会で生活させたいと願うものですから、努力や工夫をします。そうすると必ずそこに社会成長という変化や変革が起こります。関係性の変化が、人と人ならけんかの原因となり、国と国なら戦争になるわけです。そこに過去の民族的あるいは宗教的な対立による怨恨が複雑に絡んでくると、問題はさらにこじれてきますね。

日本の常識として、戦争の話が出れば、それは「悪である」と言わなければならないことになっています。だけど、よく考えてほしいのは、世界中の学校で平和を願った教育をしているにも関わらず、これだけみんなが嫌っているにも関わらず戦争や紛争は毎日のように起こっているんです。正しいか正しくないか、善か悪かだけで区別しないと気が済まないようなところがありますが、本質の部分を明らかにせずには先に進めません。

複雑な課題というのは世界中だけでなく身近なところにいっぱいあります。それらに対してどう折り合いをつけるか、そこに人類の叡智が求められますし、他者を説得し交渉するためのコミュニケーション能力が必要となってきます。

【森】 私は4年前に神戸女学院に戻ってきましたが、その前は32年間、同志社大学で教鞭をとっていました。 大学生に試験やレポートを通して、いま何が問題なのかを提示させ、解決するために何をすべきかを論じさせようと思ったことがあります。すると、学生たちは怒るのですね。なぜかというと、小学校から中学・高校と過ごすうち、問題や課題は常に先生が与えてくれるもので、いかにそれを早く正確に答えるかを考えるのが彼らのすべきことになってしまっていたのです。「教師が課題を与えず、学生に考えさせるというのは、教師の怠慢ではないか」と本気で怒る者がいたのには驚きました。この一件が何を物語っているかはおわかりだと思います。与えられた問題に対して答えるだけで事が済むならいいですが、人生には逆境もありますからね。そういう時にどう対処したらよいのかという力を自分で持てるかどうか、それを育てるのがいまの学校に求められる教育だと思います。

尾崎先生が言われるように、国にとってよき国民を育てるのが義務教育の務めだと思いますが、公立校がしているのと同じことを私学がしてはいけないのではないかと思うのです。多様な価値観やニーズに応えながら、常に先を行くという進取の気風というものが私学にはある、だからこそ大学入試の結果ばかりを売りにしてはだめだと思うのです。

-- 私学が長年かけて作り上げたカリキュラムやコース制度などのノウハウを、最近は公立高校が採り入れたりしていることも多いですね

【森】評価の高い大学に何名入れるかということを目的にするなら、そういうこともあり得るでしょうね。それに合わせて私学も、予備校に行かずとも大丈夫ということで策を打つようなら、厳しい言い方ですが、それは私学として存立する意味がないのではないかと思ってしまいます。